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更新日:2024年3月11日
浅川改良事務所
浅川は古里の辺りから周囲の土地より高い天井川となり、やがて駒沢川、田子川、隈取川、三念沢川などと合流しながら、豊野からは高低差の少ない低湿地を流れて千曲川へと注いでいます。大雨が降り増水する度に、天井川の土手は必ずどこかで決壊し、さらに千曲川が増水すれば、その逆流が押し寄せました。しかも、一度低地に浸水した水は、はけ口がなく、何日も退きませんでした。
弘化4年、善光寺地震被害絵図による善光寺地震のときの浅川のようす(真田宝物館所蔵)
大正時代の水争い。用水は農家にとって文字どおり命の水でした。
明治29年の洪水の図(長野市・赤沼公会堂所蔵)
(左)洪水水位標(長野市赤沼)
(右)柱に記された洪水水位(長野市長沼みょう笑寺)
浅川沿いに暮らす人々は、昔から度重なる水害に苦しめられてきました。ひどい時は、毎年、それどころか1年に3回も水害でやられたこともあったそうです。とにかく過去の水害記録をたどってみると、浅川はおよそ4~5年に一度の割合で、水害を起こしています。
大掛かりな工事用機械・設備がなかった昔は、道路や河川をはじめ多くの工事はほとんど人力による大変な労力を必要としました。洪水などがひとたび起きると、地域住民総出でモッコ担ぎや石積みなど力を合わせて改修しました。しかし日数を費やし多額の費用をかけても、大雨などが続くと洪水の危険と不安がつきまといました。
急速な技術の進歩により、現在は大型機械類を駆使して改修工事が実施されています。特に周辺の自然環境に配慮し、また工事の安全な進行に努めています。
田子川・浅川合流点付近の水門工事(昭和初期)
決壊箇所の復旧工事竣工(昭和5年)
旧めがね橋は、明治21年にJR信越線が開通する際に、浅川と交差するため、鉄道の上を浅川が高架水路橋で横過し、以降百余年にわたり、浅川を下流へ渡してきました。平成11年3月にJR信越線との交差部の河川改修が完成し、現在はJR信越線の下を浅川が流れています。旧めがね橋は、その役目を終えました。
旧めがね橋(高架水路橋)
新めがね橋(平成11年)
浅川がJR信越線の下を流れることで、その交差部は、鉄道橋として誕生することとなりました。こうした貴重な歴史を伝承する意味をもって、新めがね橋と名付けられました。
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