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更新日:2021年11月2日
安曇野建設事務所
「あずみの」という語感の響きの良さから、若い女性にも人気の観光地となっている安曇野市ですが、ひらがなで書く場合には「あづみのし」と表記することになっています。 この「あづみの」という名前の由来はどこからきたのでしょうか。 |
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合併以前に刊行された豊科町、穂高町、堀金村、三郷村などの町村誌には、全て安曇野発祥の歴史が詳しく記載されていて、話を総合すると次のようなものと思われます。 |
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昔、玄海(げんかい)[九州の北に位置する海]の海人族の一つであった安曇(あづみ)氏が大和朝廷の王朝の伸張と共にその勢威を拡大し、徐々に東日本へ移り住むようになり、やがて信濃の国にも定着することとなった。 | |||||||
平安時代の中期(930年頃)に作られた辞書である『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)によると、大化二年(646)年の改新の詔により、全国が畿内七道に分けられ、東山道に科野(信濃・しなの)国を置きその下に伊那・諏訪・筑摩・安曇・更級(いな・すわ・つかま・あづみ・さらしな) 水内・高井・植科・小県・佐久(みのち・たかい・はにしな・ちいさがた・さく)の10郡に分け、その下に63の郷が置かれた。安曇郡には高家郷、八原郷、前科郷、村上郷(たきべ・やはら・さきしな・むらかみ)の4郷が置かれた。 と記載されています。 |
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この安曇氏が文献上初めて登場するのは、奈良時代(746)年頃で、その年の10月に正倉院に献納された麻布に記載されている文字に『信濃国安曇郡前科(さきしな) 郷戸主安曇部真羊調布壹端(へぬしあづみべのしんよう)』とあります。献上した真羊さんが安曇姓を名乗っていたことが分かります。また、ここに登場する前科郷というのは明科小泉から押野、池田町にかけての山麓に展開していた50戸あまりの郷村で、当時は麻の産地でこれを布に織って税の一種として朝廷に納めていたようです。 | |||||||
安曇とは和多(わた)(海)、津見(つみ)という尊称から生まれた、あるいは海人津見(あまつみ)から転じたとする説が有力で、海人族のルーツを辿っていくと全国にこれに関わりの深い地名を多く発見することができます。 | |||||||
安曇族が移住した地とされる場所は、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・会見・青海・安土・安堂(あど ・あど ・あつみ・ あつみ・ あつみ・ あつみ・ おおみ・ おうみ・ あど・ あど)などの地名として残されており、九州から瀬戸内海、畿内、三河などに広く分布しています。 | |||||||
平成17年の合併によって、南安曇郡に代って登場した『安曇野市』は、歴史のある地名、これからも皆から愛される地名であってほしいものです。 | |||||||
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参考文献 |
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豊科町誌(歴史編・民俗編・水利編) 平成7年10月 豊科町誌刊行会 | |||||||
穂高町誌(歴史編上・民俗編) 平成3年1月 穂高町誌刊行会 | |||||||
堀金村誌上巻(自然・歴史) 平成3年3月 堀金村誌刊行会 | |||||||
三郷村誌1. 昭和55年9月 三郷村誌編纂会 |
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