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更新日:2021年11月2日

安曇野建設事務所

拾ヶ堰の歴史

  • 米どころ安曇野では古くから新田開発のため、多くの用水路が作られ、今でも大きな役割を果たしています。古代・中世においては、穂高川や烏川の扇状地を利用した鳥趾状の水路が主だったものでしたが、それに直角に交わる条里型の水路開削が徐々に進められるようになってきました。
  • 主な用水路としては勘左衛門堰(かんざえもんせき)、新田堰(しんでんせぎ)、矢原堰(やはらせぎ)などがあり、いずれも江戸時代の初期、1600年代に造られ、梓川、犀川、奈良井川などの取水堰から取り込まれた水は安曇野の平野部を流れ、多くの水田に水を供給してきました。
 

  • 松本市平瀬から安曇野市穂高柏原に至る延長約15km、灌漑拾ヶ堰が作られたのは、これらの堰堰から遅れること約200年、1816年のことです。
  • 天明の大飢饉(1782~1783年)を経験した松本藩は農業指導に意を注ぐようになり、耕地の拡大・水田の造成に乗り出しました。
  • 完成後は耕地面積や石高が大きく増え、現在の安曇野の農業の原型を築く礎となりました。
 
  • 拾ヶ(じっか)堰の名前は当時、開削申請をした成相(なりあい)町村、新田町村、上堀金村(かみほりがね)、下堀金村(しもほりがね)、吉野(よしの)村、柏原(かしわばら)村、矢原(やはら)村、保高村、保高町村、等々力(とどりき)町村の10ケ村に由来しており、後に中堀新田村も加入し11ケ村となりました。
  • 堰は標高570mの等高線にほぼ沿っており、平瀬の取水口と穂高の排水口の標高差は僅かに5mしかなく、0.03%という勾配で造られています。このため、水はゆっくりとした速度で流れ、水鳥が多く生息する環境を作り出しています。
  • 開削当時の測量技術の高さには感心するばかりですが、開削者である中島輪兵衛、平倉六郎右衛門などが用いた測量機器である水準器(レベル)は高さ95cmほどの簡易なものであったと思われ、当時の努力が偲ばれます。
  • 2006年には農林水産省などが指定する日本の疎水100選に選ばれており、現在ではあづみのやまびこ自転車道などが並行する形で走り、自転車で安曇野を巡る観光客なども利用することから、安曇野を代表する景観のひとつになっています。

 

 

(参考文献)
豊科町誌(歴史編・民俗編・水利編)平成7年10月/豊科町誌刊行会
穂高町誌(歴史編上・民俗編)平成3年1月/穂高町誌刊行会
安曇野と拾ヶ堰(平成5年4月)北野進/著
 
 

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所属課室:長野県安曇野建設事務所総務課

長野県安曇野市豊科4960-1

電話番号:0263-72-8880

ファックス番号:0263-72-8882

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