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更新日:2020年9月30日
諏訪地域振興局
滝之湯堰(たきのゆせぎ)と大河原堰(おおかわらせぎ)は、今から200年以上前に、田沢村(現茅野市宮川)の名主であった坂本養川(さかもとようせん)の高島藩への献策によって開削された農業用水路です。
当時は、農業生産が国力の基礎であったため、藩も財政力の増強と農業生産の拡大を目指して、新田開発に力を注いでいました。しかし、18世紀半ばになると、水不足から開田の動きも限界に達し、農業用水をめぐる紛争が各地で多発する状況となりました。
坂本養川(1736年から1809年)は、殖産興業をもくろみ、「繰越堰(くりこしせぎ)」という新しい水利体系を構想し、1775年、自ら願人となって用水の開発を高島藩に請願しました。
「繰越堰」とは、東西に流れる複数の河川を用水路で結び、比較的水量が多い北部の滝之湯川、渋川などの余水を順々に南部の水不足地帯へ送ることにより、その沿線の農地をかんがいする仕組みです。
天明の大飢饉(1782年から1788年)に見舞われ、農業生産を増大する必要に迫られていた藩では、1785年に最初の繰越堰となる滝之湯堰を開削し、以後1800年までの15年間で15の堰を開削(約300ヘクタールを開田)しました。この結果、村々の水不足は解消し、水田の石高が飛躍的に増加しました。
滝之湯堰と大河原堰の両堰は、ともに蓼科山から流れ出る滝之湯川を取水源としています。1785年に滝之湯堰(開削時10.4キロメートルから現在14.4キロメートル、最大取水量4.05立方メートル/秒)が完成し、1792年には、その上流の大河原堰(開削時12.5キロメートルから現在14.4キロメートル、最大取水量2.48立方メートル/秒)も完成し、取水を開始しました。
二つの堰は、同一河川の上流(大河原堰)と下流(滝之湯堰)から取水している兄弟関係にあります。両堰は、母なる滝之湯川の限られた恵みをめぐって、骨肉の水争いをしてきた歴史もありました。しかし、現在は水路が整備され水不足も解消されているため、共存し友好的な関係となっています。
また、農業用水のほか、防火・生活・環境用水としても利用されており、地域の重要な水路となっています。
坂本養川が計画した「繰越堰(くりこしせぎ)」という水利体系は、東西に流れる複数の河川を用水路で結び、比較的水量の多い北部の河川の余水を順々に南部の水不足地帯へ送ることにより、その沿線の農地をかんがいするもので、画期的な構想です。
滝之湯堰からの取水口の構造は、「芝湛(しばたたえ)」と呼ばれ、木・石などで築いた小堤防で河川を堰き止めて取水していますが、下流への水量を確保するため、漏水させ全量取水できない構造となっています。現在も受益者である茅野市滝之湯堰土地改良区、茅野市大河原堰土地改良区によって、開削当時とほぼ同じ構造で大切に維持管理されています。
導水部は、当時土型水路であったため、途中で漏水した水を使って営農をしていた人達にも水利用の権利が発生しました。このため、改修にあたっては、このような権利にも配慮し、底張りをしない構造等の工夫をしています。
また、河川沿いの急斜面では、通水断面を確保するため、硬い岩をくりぬいて水路を造っており、当時の卓越した技術がみられます。
渓谷が深い河川横断部では、川岸の急峻な崖を一気に落下させる必要があるため、滝となっています。減勢・集水した水を水路橋で対岸に渡し、渋川からの補給水を併せて下流へ導水しており、自然の地形を活かしたユニークな構造となっています。そして、これらの滝は、地域を代表する観光名所となっています。
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