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更新日:2019年3月22日

地図から読み取れる防災情報

古い地図に限ったことではありませんが、地図や人々の住まい方などから読み取れる防災上の話題についていくつかご紹介してみます。

1)繰り返し発生する土石流や洪水氾濫などについて、暮らしの中で向き合ってきた結果が土地利用などに表れているケース

地すべり地の地割慣行

小川村稲丘地区のある棚田では、頻発する地すべりに対して己り地(わりち)と呼ばれる地割慣行により、一部の人に地すべりが発生したときの損害が偏らないような工夫がなされていたとのことです。当地では今でも、砂防惣代と呼ばれる地元の方々が熱心に土地や砂防設備の管理に携わっておられます。同様の地割慣行は、かつて連帯保障と危険分散の工夫として、平野部河川沿いの洪水の常襲地帯などでも見ることができたようです。

地すべりを避けてきた家屋の立地

小谷村中谷地区のある集落では、その昔、地すべりが発生すると地域の皆さんで協力し合って、曳き家をして引っ越しをしたことがあったということです。そういうことを繰り返していった結果、地すべりの被害を受けやすい場所には比較的人が住まなくなるような土地利用となっていったと考えられます。

土石流を避けてきた家屋の立地

繰り返す土石流に対してどういうふうに土地を利用したほうが合理的か、地域で取り決めをしていたような例があります。広島県海田町三迫川の事例では、左岸側だけ人が住むようにし、右岸側を少しだけ低くして耕作地に使うという方法がとられたとのことです。

 

堰(せき、せぎ)

農業用などの水を得るための苦労は大変なものがありました。谷底に水があってもしばしば土石流で堰は流されました。安定な取水を目指して遠くの谷から水を引くこともあったようですが、せっかく造った導水路も長ければ長いほど、地すべりや地震で勾配が変わるなどの被害に見舞われたことでしょう。先人がどこに水を求めてどのような工夫をしたか追跡することで、土砂の流出の激しさが想像できる場合があります。写真の長野市湯福川の事例は、落差工を築造したほか、鋳井堰(かないぜき)の水路との交差部(地名:土揚場)でしばしば土砂を揚げる必要があるなど、往時の激しい土砂流出や河道の侵食がうかがえます。

 

2)土砂災害の原因となる地形や山地の荒廃状況などが表現されているケース

山地の荒廃状況

かつて多くの資材やエネルギーを山地の森林に求めていた時代、場所によっては樹木の乱伐などによって山地の荒廃が進み、土砂流出の原因となっていました。このほか大規模崩壊などをきっかけとして土砂の流出が止まらず、下流の安全や河川利用のさまたげになるようなことは多かったようです。県下には古くから築造された石積みの砂防施設など歴史的な砂防の事業地が多くありますが、地図の中に山地の荒廃状況や砂防施設が表現されているケースがあります。

2万5000分の1地形図「鉢伏山」牛伏川上流部
(1910年(明治43年)大日本帝国陸地測量部)
2万5000分の1地形図「鉢伏山」同左図
(2017年(平成29年)国土地理院地図)
牛伏川上流の荒廃状況(1909年(明治42年)) 空中写真同左範囲(1975年(昭和50年)国土地理院)

 

過去の洪水の氾濫範囲

善光寺地震で犀川に形成された天然ダムは地震19日後に決壊し、善光寺平を洪水が襲いました。地震災害の様子を記録した絵図などでは、延徳田んぼと呼ばれる地域の浸水が克明に表現されています。浸水痕跡からは、夜間瀬川からの膨大な土砂流出で形成された扇状地が千曲川本川の流水をさまたげた原因となっていることをうかがい知ることもできます。

 

3)土砂や洪水を受け流す工夫がうかがえるケース

霞堤

勾配のある扇状地では、浸水害に増して勢いのある洪水流の直撃から耕作地を守ることが重視されたようです。上流からみてハの字状に配列した堤防によって洪水の流れを集落から遠ざける、堤防は河川の延長方向にあえて隙間を開けておくことで氾濫させる場所を制御するほか水位が高くなりすぎないようする、万一氾濫した場合の洪水流が河川に戻りやすくする、などの知恵が凝らされています。県内でも三峰川(みぶがわ)などに見ることが出来ます。

舟形の土石流バリア

土石流の常襲地帯では、大きな力に耐えるコンクリートや鋼材なかった時代、現代のように谷の出口に砂防えん堤を築く替わりに、家屋を取り囲むように上流に舳先を向けたような舟形の石垣を築き、それによって土石流や洪水を受け流すケースがありました。写真は中川村に残る「お志茂の水除け」と呼ばれる石垣です。

 

4)災害をきっかけとした集団移転など、土砂災害との苦闘の歴史が刻まれているケース

集落移転の歴史

36災害で大きな被害を受けた中川村の四徳(しとく)地区では、全戸あげての集団移転を決意し、駒ヶ根市など近隣の自治体にまとまって移り住まわれたそうです。突然襲われた災害を契機として、住み慣れた故郷を離れるつらさはいかばかりだったでしょう。四徳地区のほか、集団での移転を決意した地区はかなりの数にのぼりました。平穏な暮らしを懸命に守っておられた災害前の当時の様子を、古い地図からうかがうことができます。

 

5)過去に土砂災害などがあったことを示す地名が残っているケース 

蛇抜け

古くから土石流を示す「蛇抜け」という言葉が県下各地で伝承されています。例えば木曽郡南木曽町には、蛇抜沢や押出沢という地名があります。また1953年(昭和28年)の伊勢小屋沢の蛇抜け(土石流災害)で亡くなった3人の霊をなぐさめるとともに、この災害で得られた教訓を後世に伝えることを願って建てられた蛇ぬけの碑があります。

 

蛇抜沢全景(中央)

 

蛇抜橋

蛇ぬけの碑

白い雨が降るとぬける
尾先谷口宮の前
雨に風が加わると危い
長雨後谷の水が急に
止ったらぬける
蛇ぬけの水は黒い
蛇ぬけの前にはきな臭
い匂いがする

 

 

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建設部砂防課

電話番号:026-235-7315

ファックス:026-233-4029

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