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更新日:2019年3月16日
木曽郡南木曽町の旧妻籠宿から中山道を馬籠峠方面へ上って行くと、雄滝・雌滝の手前に大崖沢があります。この沢の上流は、かつては斜面崩壊が著しく、土石流(蛇抜け)が繰り返し発生していました。1749年(寛延2年)には、下り谷にあった白木改番所(しらきあらためばんしょ)が蛇抜けによって崩壊し、一石栃へ移転を余儀なくされました。1839年(天保10年)頃には大きな山崩れがあり、その後多量の土砂流出により麓の集落や街道に被害を及ぼしています。
明治初期の村絵図は一般に、地形については詳しく描かれていませんが、吾妻村図では大崖沢の急斜面(崩壊地)に朱色が付されており、当時は特異な景観であったことが伺えます。
大崖沢は延長約1km、男埵川から源頭部までの比高は約300mで、最奥部は45度以上の勾配を持つ急崖が馬蹄形状に取り囲んでいます。現在、流域の斜面は樹木に覆われていますが、源頭部には比高30~50mの線状の崩壊箇所が随所に見られます。
地質は濃飛流紋岩(溶結凝灰岩)に伴う半深成岩(石英斑岩・花崗斑岩)です。岩石は堅硬ですが、節理が発達しマサ化が進行しているため、崩壊が発生しやすい状態です。大崖沢下流部には活断層である木曽山脈西縁断層帯の馬籠峠断層が通過しており、この断層帯による岩石の破砕も風化を促進している要因と考えられます。
1878年(明治11年)、明治政府が招へいしたオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケがこの地を視察し、内務省に砂防工事の必要性と予算増額を強く要請しました。1880年(同13年)、明治天皇が中山道を巡幸の際、砂防工事現場を視察したことが記録されています。このとき施工された堰堤工(谷止工)は厚さ2mの土の中に埋もれていましたが、1982年(昭和57年)、100年ぶりに発掘されました。堰堤工は高さ5m、長さ50mで、石積みで施工されています。わが国に現存する最初期の砂防施設であり、長野県内では最古です。1987年(昭和62年)に砂防公園として整備され、その後、町指定文化財、経済産業省の近代化産業遺産に認定されています。
現在、大崖沢は山地災害危険地区の崩壊土砂流出危険地区(林務)に指定されています。
地形図 | 地質図 |
空中写真 |
土石流-蛇抜けの話
南木曽町に与川という川が流れています。その川をさかのぼった山では、貴族の家を建てるために大ぜいの木こりが集められ、役人のもとでたくさんの木が切られていました。その木こりの中に、正直者の与平という男がいました。
ある雨の激しい夜、与平は「トン、トン。」と小屋をたたく音に目をさましました。恐る恐る戸を開けると、白い着物を着た女の人が悲しげに立っていました。そして女の人は「これ以上木を切り倒すと、必ず悪い事が起こるでしょう。」と言い残して雨の中にスーッと消えてしまいました。
あくる日、与平はこのことを仲間に話しました。木こりたちはこのことばを恐れて、仕事を続けることを拒みましたが、役人は聞き入れません。こわさのあまり、とうとう与平は「はらが痛い。」と嘘をついて仕事を休んでしまいました。
その夜、いつかの女の人が現れて、「あした雨が降り始めたら、山の頂へ必ず逃げてください。」と言い残して、夕闇の中へ消えていきました。
次の日、女の人の言った通り、大雨が降り土砂くずれが起きました。このため、里の家々は後かたもなくつぶされて、中仙道もくずれ去ってしまいました。この時与平は、土砂に流されていく白へびを見ました。実はあの女の人は白へびの仮の姿だったのです。
このことが起きてから、与平は木こりをやめて、馬方になり尾張の国から食物を運んだということです。
こういうわけで南木曽町には、水難を防ぐ石碑や地蔵様が多く建てられています。
(出典:木曽西高等学校地歴部編(1980)私たちが調べた木曽の伝説第5集)
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